たくさんの方からプレゼントをいただきました、
感謝申し上げます。
今日で39歳という事で、
39年前の今日の午後2時くらいに生まれたそうですが、
この生まれた瞬間の事を考えると、
私の両親ってどんな事を思っていたのかなぁ〜と想像してしまいました。
父も母も死んでしまいましたが、
亡くなる前の事を思い出してしまいました。
4年前、母はもう手遅れという事で、
在宅医療に切り替え自宅で亡くなる3日前の事
目を瞑ったままほとんど反応が無く寝たままの母の横に座り、こう語りかけました。
「おかーん 俺、おかんの子供に生まれて本当に良かったわ、ありがとう。」
と言うと、この数日間反応が無かった母が、
コクッ
と小さく頷きました。
続けて私は、
「おかん、おかんが元気になったら、
マンちゃん(父)とみんなで暮らす事に決めたから」
と言うと、
動けるはずの無い母は、
うっすら目を開けながら、
ゆっくりゆっくり左手を持ち上げて、まるで
「ありがとう、たのむ」
と言わんばかりの安堵のある表情でした。
母は、家事が何もできない父を残して死ぬ事を
心配していたのを知っていたので、
その事を察して母を安心させたくてそう伝えました。
この3日後に亡くなりましたが、感謝の言葉を伝えられて本当に良かったと思ってます。
父は去年亡くなってしまいましたが、
父は人工透析をやっていた事から、心臓を悪くして、徐々に機能が落ちて病院に運ばれましたが、
もう手術をしても予後は30%.と診断されました。
手術をするべきか迷いましたが、
可能性があるならという事で、手術を選択しました。
手術する1週間前、入院している父からこんなLINEが送られてきました。
父から
「おはようございます。(これから、私が思っていることを忘れないようにメールを送り、記録に残します。迷惑でしょうけど。)
啓士へ、いろいろ、ありがとう。
啓士が生まれた時、私は万歳を何度も発しました。ついこの間のようです。久美子お母さんは、ベッドで「ありがとう」を連発していました。
島野家の唯一の男の子の誕生で、家族、親戚、みんな喜びあいました。
それが、こんなに立派に、成長しました。そして、商売も見事に成功しました。
人に喜ばれる仕事に就き、成功し、また、とても親孝行な、人格を備えて、私は父として、これ以上の幸せは、ありません。
啓士が世に現れてからの島野家は、全てに恵まれてきました。私も充実した父親人生を送れてきました。
しかも、青年以降の啓士は、人格も備わり、何の不安材料もないほど、模範青年に育ってきました。感謝感謝です。
この手紙を書きながら、胸、目頭が熱くなります。学業は、まあ、普通でしたが、社会勉強は、人の二倍三倍頑張りましたね。
印象的なことは、東京のアパートで、寝ながら語り合った長時間の親子の会話、今でも鮮明に覚えています。
そして就職、独立、と見事に花を開かせました。父として、この上ない誇りです。
娘たちも、それぞれ、素敵な旦那さん、子宝に恵まれ、幸せな人生を歩み、私も、久美ちゃんも何も言う事は、ありません。父親冥利に尽きます。女の子も、幸せ街道を進んでいます。そしていい娘たちばかりです。
久美子お母さんに良い報告ばかりできます。啓士ありがとう。娘たちありがとう。朦朧とボケる前に一筆書きました。手術が近くなるにつれて、また、書くかも知れませんが、よろしく。」
このメッセージが来た1週間後に手術をしましたが、
やはり予後が悪く、長時間の全身麻酔の負担もも大きく、一気に認知症も進みました。
数ヶ月後に段差につまずいて死んでしまいましたが、
このメッセージは、大切に残してあります。
母は無くなる一年前、姉に言っていた事を聞いたのですが、
「啓士が整体師で上手くいってるのに、
私がこんな病気になって申し訳無い」
と漏らしていたそうです。
母が私を想う気持ちを想像すると、
逆に申し訳無いなと思う一方で、
家族の治療をして感じる事は、
血筋上、距離が近い分、家族の治療って本当にうまく行かないのです。
やってみて痛感しました。
という事で、
先ほど両親の仏壇に手を合わせて、
「おとん、おかん、私は楽しく暮らせてます。
産んでくれてありがとう」
と、伝えました。
という誕生日でございました。
おしまい。